本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

七地の五種相差別(しゃべつ)

仏教では差別と書いて

「しゃべつ」と読み、

意味も普段使う意味と違っています。

それぞれに相違のあること、

お花屋さんには沢山の花が並んでいます。

薔薇もあれば、ユリもあり、菊もある

というように、色形も違う

相違があるわけです。

けど、花としてみたらその本質は同じ、

そういうことで、差別と平等ということは

対の句として使われます。

 

講義が始まるときは繰り返しのようですが

この五種の差別から始まるようで

その五種ということについて忘れないように

書いておきます。

 

1.楽無作行対治差別

 (ラクムサギョウタイジシャベツ)

ここで言う対治とは、普通でいう退治と違って

鬼退治の場合は退治を書き、

自分の煩悩と向き合う意味では煩悩対治と

同じ対治でも区別して使います。

 

ここでいう楽無作行というのは

六地で得た「空の智慧」に安住してしまい

修行が止まってしまう

そういう心を対治するというのです。

 

2.彼障対治差別

 (カノショウタイジシャベツ)

3.双行差別

 (ソウギョウシャベツ)

4.前上地勝対治差別

 (ゼンジョウチショウタイジシャベツ)

5.彼果差別

 (カノカシャベツ)

とあります。

 

ということを踏まえて講義を読むと

 

「力(リキ)とか願とか廻向(エコウ)とか、

みなこれは方便智というもので、

まあ何といいますか、

根本智は、第六地で終わっているんです。

かえって根本智から起こった方便なんです

そういうところに七地というものの

面目があるわけです。

これがつまり、

八地というものをなんでしょうね、

ちょうど六地から八地までの間に

ですね。

 

それがこの第七地というものが

これが初歓喜地から始まった行が

終わったと共に

また八地以上に展開されるものを

引き出してくると。

上地とこういっとるんです。

八地以上の地を上地(ジョウチ)という。

そうすれば六地以前は、

下地(カジ)といいますね。

上、下という、

ここにもやっぱりその七地にもですね、

七地のところの経文にもですね、

 

この前読みましたように、

前上地勝差別という第四番目ですね。

前上地勝差別。

世親の解釈によるというと、

七地の経文は文章の段階の上にですね。

五つの差別があるというわけです。

 

この差別によって、

なんぼ差別があっても、

全部が七地としては、同一なんです。

だから、

この七地そのものをですね、

五段の文章の差別によってあらわして

くると。

 

この四番目にですね。

前上地勝差別という一段がもうけられとる。

こういうところからも

七地というものの意義をよく表しとる。

前はこれ下ですね。

それから上は上ですね。

前と上との地に、

勝れとるという差別なんです。

 

これもおかしい、

ちょっというと、考えたらおかしいが、

下の方に勝れとるということは

わかるけども

上の方に勝れとるということは

ちょっと分からんでしょう。

前に勝れとると、

後のものが前のものに勝れとると

いうことは分かるけど、

しかし後のものに対して勝れとるというと

ちょっと文章が分からんようです。

 

しかしあのなんですね、

七地というものがやっぱり一つのですね、

前を超えたと、それで七地になった、

前に勝れとるということは

明らかなことだけど、

その前に超えた力で、

また後を引き出してくると。

 

だから七地がなけりゃ八地を引き出す

ものはないわけです。

そうすれば八地以上、

上地を引き出す力をもっとるわけです。

そういう意味においては、

上地よりも勝れとると。

 

この意義がですね、前の、

六地以前とそれから八地以上との

一つの媒介点になるというようなことが

これがまあ七地の面目なんです。

七地の面目は一語にすれば

方便にあるわけです。」

 

繰り返しのようですが

講義を聞いている私たちにとっては

一月も間が空くと、

また新鮮に初めて聞くように

聞こえてくるのが不思議です。

 

この差別ということも、

良寛の歌に

 

「いかなるが苦しきものと

  問うならば

 人を隔てる心とこたえよ」

 

というものがあります。

人の心も恐ろしいものは煩悩というより

私と他人とを比べる心です。

ものを持てば持ったで

私の方がいいものだと

持たなければ持たないで

あいつがもってるのに自分も欲しいと

こういう心を自他差別心というのでしょう

常に自分と他人を比べて

勝った負けた、あいつより上だ下だと

そういう心はなくならないものです。

 

自他差別心を唯識では末那識(マナシキ)

というようです。

第七番目の意識です。

それで八番目の意識を阿頼耶識(アラヤシキ)

といいます。

そいう自分勝手なこころを

黙って蓄えていくのが八識の阿頼耶識です

 

しかし、

こういう問題はやはり世間の意識では

読めないようです。

面倒くささに耐えなければ読めない。

面倒くさい問題を丁寧に読んでいく

こういうこともこういう仏典を読む

一つの工夫がいるように思います。

運命愛(Amor Fati)アモール ファティ

「運命愛」ニーチェの提唱した言葉です

この講義でもよく出てきます。

「自分の人生に起こるすべての出来事を

 苦しみも失敗も含めて、

 必然的なものとして受け入れ、

 それを丸ごと愛そう」という考えです。

 

講義では、

二乗(声聞・縁覚)というものを菩薩は恐れる

と、地獄は恐れではないと、

菩薩にとってはあえてはたらく場所であると、

ということで読んでいきます。

 

「地獄でもあえて後悔せんというのが

菩薩なんだ。ところが二乗を恐れると。

菩薩にとっては地獄というものは、

大悲の対象なんだ、痛みですね。

しかし二乗はね、これはもう全くの

転落なんだと。

 

そこで、独覚ということがある、

縁覚とも言いますけど、

つまりその時に、寂滅を証したら、

どうなるかというとですね、

それは、pratyeka といいまして、

pratyeka-buddha(プラティエーカ・ブッダ)

これは、それを独覚というんですが。

独というのは、個人といいますね。

さとるのはさとりなんです。

さとるのをブッダといいますね、

独覚の覚は仏陀なんです。

だからしてその涅槃すれば仏陀なんです。

だから涅槃すれば、これは仏になるんです。

 

けどそれを恐れるというのは、

一人のさとりですね。

個人的さとりです。独覚ね。

プラティエーカ・ブッダになることを恐れる。

つまりこれは如来じゃないんだ。

同じ仏陀でも、これタターガタ(tathâgata)。

タターガタの仏陀になりたい。

独覚、これは阿羅漢です。

さとるのはさとってるけど、

タターガタのさとりにはならん。

 

こっちの方は独覚に対して妙覚といって

いいんです。あるいは円覚とか。

菩薩は妙覚とか円覚とか、そういう覚を

求めていて、独覚を求めないんです。

個人的なさとりというものに落ちることを

それを沈むというんです。

 

つまり主観的な個人的なさとりでしょう。

『華厳経』をみると、

釈尊が成道したときにですね、

奇異なるかな奇異なるかなと書いてある。

その山河大地が、同時に成道したと、

釈尊がさとってみたら

自分だけじゃなかったと。

全法界がさとりを開いていたと。

山川草木悉皆成仏(サンセンソウモクシッカイジョウブツ)

ということがありますね。

宇宙と共にさとりを開くと。

個人だけがさとりを開いいたもんじゃないと

 

こういうのが大乗のさとりです、

円覚ですね。

そういうものを求めて止まんのです、

菩薩は。

個人の一人のさとりというものは

問題にしない。

かえってそこに入ったら永遠に出れんのです。

独断ですからね。

自分だけがさとっとるだから。

ひとりよがりのさとり、

つまり人の苦しんどるのことが苦にならん

のですよ。

自分だけがさとって周囲は皆、迷っとる。

迷って、人が迷っていることが問題にならん。

のんきもんですね。

 

なぜ菩薩道というものがいるかといえば、

プラティエーカ・ブッダになりたくないから。

さとりとか智慧とかいうものに

固執したくないんだ。

固執したような智慧を放棄したいと。

 

だから世間とか迷い、

有(ウ)というのは迷いでしょう。

これが個人的さとりを破るんです。

つまり、永遠に有と運命を共にしようという

決断。

これいうのがニーチェのいう運命愛でしょう。

ニーチェはうまいこといってます。

運命愛ですね。

一切衆生の流転の運命とですね、

流転しとる衆生と運命を共にしようと。

こういうんです。

これを運命愛といいますね、ニーチェで。

ああいうのは非常に大乗的に近いところ

ですね、ニーチェはね。」

 

運命ということでもう一つ気になるのは

ヴェートーベンの第五交響曲「運命」です。

ニーチェよりも70年ほど前の時代です。

ヴェートーベンもニーチェと同じように

非常に困窮した苦労の多い人生です。

難聴に苦しみながら作曲活動をする。

それに胃腸カタルも発症して

精神的にも肉体的にも苦しんだ人生です。

 

この時代、産業革命も起こり、

キリスト教の影響も少なくなり、

人生というものが神によって造られたもの

ではなく、

個人が作り上げていくという

そしてその結果は自分が引き受けていくという

そういう考えが芽生えてきた時代でしょう。

だから運命というような、

消極的な意味ではなく積極的な意味として

受け入れていく、

そういう考えが生まれたのでしょう。

 

前の京都大学の総長で平沢興とい先生、

学生の頃、勉強についていけなくて

自分の限界を感じ、もう止めてしまおうと、

故郷に帰り、自殺する場所を求めて

山をさまよっていたところ、

突然、雷鳴の如く、

ヴェートーベンの言葉が響いてきた

それも原語で、

 

「たとえ肉体にいかなる欠陥があろうとも

我が魂はこれに打ち勝たねばならない」

 

という言葉を聞き、自殺を思いとどまり

学校へ帰って、それからは

毎朝3時に起きて勉学に向き合うという

努力に努力を重ねたそうです。

それで先生の言葉は

「一にも努力、二にも努力、三にも努力」

ということを貫かれました。

 

ヴェートーベンのこの言葉は

彼が25歳のとき書かれたものです。

35歳の時に「運命」作曲し、

45歳では完全に聴覚をなくし、

53歳の時には第九「合唱」を完成させ

57歳ウイーンで亡くなられました。

 

なにかしら「運命」という言葉にも

重みを感じるものです。

 

 

 

 

 

自分を磨き、仏具も磨く

なにかしら、「磨く」ということは

とても好きな言葉です。

真言宗では護摩壇があったり、大壇とか

その上で使う仏具が沢山あります。

六噐(ろっき)、火舎(かしゃ)、

四橛(しけつ)、金剛盤(こんごうばん)

五鈷杵(ごこしょ)、五鈷鈴(ごこれい)

などなど、たくさんの真鍮製の仏具があります。

これらの仏具がピカピカに磨かれていると

お参りするときには気持ちも引き締まる

ものです。

 

先日のテレビですか、最近のICチップも

その性能を左右するのは磨きによるそうです

いかに研磨されているか、寸分の狂いもなく

その技術がこの小さなICを左右する

ということですが、

昔はレンズ磨きでしょう。

その当時はレンズを磨くということは

最新の技術で、遠くのものを見たり、

また、小さな微細なのもを見る顕微鏡とか

見えない世界を見るということでは

この磨くという技術は最先端だったようです。

 

よく、この『十地経論講義』で出てくる人に

スピノザとライプニッツがあります。

おぼろげながら気に入ったのは

スピノザという人、哲学者でございというより

職人さん、それもレンズ磨きの職人だった

ということです。

大学から招聘があっても、それを断り、

昼間はひたすらレンズを磨いて生計を立て

夜は思索に打ち込むという。

そういう人だったようです。

 

それと対照的なのはライプニッツ

この方もよく講義に登場します。

モナドという、そしてモナドには窓が無い

そういう経緯があってか

先生のご命日を「無窓忌」と呼びます。

この方はエリートで政治経済、学問の上でも

表舞台で活躍されたようです。

 

同時代の人で一度だけ会われて

2.3日を一緒に過ごし語り合い論を戦わせた

ということです。

官僚組織の中で活躍したライプニッツ、

一切の束縛を嫌って自由に思想を求めた

スピノザ、対照的な二人のようです。

 

面白かったのは

スピノザの時代も現代の最先端も「磨く」

ということでは共通するものがある

ということです。

 

外面的にはものを磨くということですが

内面的には自分自身を磨く

ものにしても心にしても磨くということでは

相通じるものがあるようです。

 

「磨く」ということも奥が深くて

漆塗りの仏具とか最高級のものは

呂色(ろいろ)仕上げといって、

漆を塗った後の細かい刷毛目とかを

炭で磨き込んでいくという、

手のひらで磨き上げるという

それは仏具を磨くというよりもさらに

根気のいる仕事です。

 

東寺で大壇とか修理したときに

この呂色仕上げでやって頂きました。

その深みのある光沢はまさに鏡のようで

先程の仏具とかを落としても

ちょっとやそっとでは傷もつかないほど

美しいものです。

また、研ぎ出し蒔絵というのもあって

下地に塗り込んだ絵を磨いて研ぎだす

そういうものもあります。

ここまで磨き上げると汚れも付きにくく

そっと羽箒ではたくだけでもとの鏡のような

美しさが蘇るものです。

 

まあ、似たようなものに

金属では鏡面仕上げというものがあるようで

これも見事に美しいものです。

木でもいい鉋といい腕のある職人さんが

かけた柱とかはちょっとの雨が当たった位では

沁み込まない、はじいてしまうほど表面が

均一に研ぎ澄まされるようです。

 

私たちも煩悩という汚れがあるのです。

それを研いでいくのが修行なのでしょう。

『十地経』の十地という段階も

煩悩を対治していく工程のようです。

何もしない間は「煩悩」なんてありません。

何かをやろうとすると

途端に邪魔するものが見えてきます。

やればやるほど見えてくるのです。

 

面白いもので

望遠鏡でも性能が悪いものはそれなりに

美しく見えるものです。

ところが、だんだん性能が良くなってくると

次第に見えているものの粗が見つかります。

更に倍率をあげると

その粗の原因が分かってきます。

だからまた、倍率をあげていく。

 

その話を聞いた時、

私たちも何もしない間はそれなりに

美しく見えるものです。

ところが、ちょっとでも修行をすると

私たちの何もできてなかったことが

顕わになってきます。

立派なものと思っていた自分が

何ともみっともなくお粗末なものに

見えてくるのです。

だから、そこからまた修行に励む

するとまた、別なものが見えてきます。

 

そういう修行の連続がこの『十地経』と

いうものを生みだしたのでしょう。

尽きない世界を見出す

それが仏の世界かもしれません。

人の世界は尽きるものです。

何かしらそういうことに面白味を感じます。

 

 

 

明るいナショナル!!

本当に講義の余談のような話で

「あの、『明るいナショナル』という

言葉はいいいね、

暗いということが問題や」

というようなことを話されていました。

一昔前の、今はパナソニック、以前は

ナショナルと言っていました。

そのコマーシャルの文句が

『明るいナショナル』

ということだったのです。

 

「暗いのが問題や、

何か腹に一物持っているのでしょう。

それが暗くするんですよ。」

 

沈空という、空に沈むという

ことが出ていたのですが、

沈むということの大きな特徴は

暗くなるということです。

人生の苦労をいっぺんに背負うたよな

悩んで押しつぶされそうな

そういう心境で暗くなるのでしょうが、

 

よく考えると、

悩むというより困っているとも

いえるのです。

何かうまい道はないかしらと

逃げ道を探す、

それは悩むのではなく困っている

だからでしょう、

 

「明るく悩んだらどうかね」

とも話しておられました。

悩んだら暗くなるだろう、

明るくなんか悩めるかと、思っていた

のですが、

こういう話しもあります

「思いは暗い、事実は明るい」と

 

いろいろ考えている間は暗いものです

何か都合のいい方法を探している

逃げ道を探している

そうなると自然と顔は暗くなるものです

その現場に接すると

事実は意外と明るいものです。

 

ということを思い出したのです。

それから、

「第一義諦」(だいいちぎたい)

ということも出てきました。

簡単には

第一番目に考えなくてはいけないこと

ということです。

以前、宇治にある「黄檗山万福寺」

ここの山門には

「第一義」という扁額が掲げてあります。

ドキッとした覚えがあります。

 

まあ、有象無象は来るな!

真剣に生きるとは何か、そういう問題を

もった人はこの門を通ってよい

そういう言葉に聞こえてきたのです。

 

熊本のお寺に帰り、

右も左も分からないまま

何とかお寺も軌道に乗っていた矢先に

三浦先生からの電話、

「どうですか」と、

「はい、お葬儀や法事で忙しく

しております」と、

すると、

「えらい、呑気な話やね」

「何のために坊さんになったのか」

「まず第一に考えなければいけない

ことがあるだろう。

それを疎かにして、忙しいとは

何事かと」

 

厳しい言葉がありました。

坊さんになった一番の問題は

生きるという、人生の問題を

真っ先に考えるのが坊さんだろう

ということです。

そして、

「売僧にはなるな!」

という厳しい一言。

 

この第一義ということを目にするたびに

思い出す言葉です。

 

ここの講義で出てくる

「それが第一義諦です。般若現前です。」

という言葉、

いろいろの修行の結果

やっと六地まで来た、そこが般若現前、

般若の智慧が目の前に現れてくる

もうこれでいいと

一安心するのです。

すると、修行が止まってしまう。

そこが大きな落とし穴で

意欲をなくしてしまうのです。

 

そういうことが沈むということでしょう。

空という智慧を得た、

もうこれでいいと、

そういうことで、歩みが止まってしまう

そういう危険性があるのです。

 

六波羅蜜でいうと

第六番目が「般若波羅蜜」です。

もうこれで完成しているようですが、

第七番目が「方便波羅蜜」

まあ、私にとっては家内みたいなもんです

一言、

「あんたのやっていることは何に役にも

たたん」のですよと、

一蹴されてしまう。

頭でっかちの智慧なんか現実で生きる

女性にとっては何の役にもたたない

そこに、

方便ということが突き付けられてくる

 

安田先生も奥さんのことを

「サソリみたいなやつでね」と

ふとはなされたことがあります。

チクリチクリと刺すんや。

 

ということで、

更なる歩みということが要求されて

いるのでしょう。

呑気になんかしておれない

叱咤激励があるようです。

 

いずれにしても、

そういうことも明るく受け止め

明るく悩んでいかなければ

やはり七地ということは

大きな課題を含んでいるし

大きな実践の問題が問われている

ところでもあります。

 

 

 

七地沈空難(しちじじんくうのなん)」

先日のところで先生の講義の内容を

書き忘れていたので、

 

「『十地経』で沈空ということをいう。

こんな沈空というような思想がですね、

あるんです、十地の教説から。

七地沈空というようなものの難を

超えるというようなことを。

自性唯心に沈むというようなことも。

 

ここでも空が悪いことではないだろう

と思う。般若がね。

悪いどころじゃない、

それが第一義諦(ダイイチギタイ)です。

般若現前ですから。

空に沈むのが悪い。

なぜ沈むようになるかといえばね。

 

まあこれが、

精神分析というものは、

非常に唯識の学問は細かいんです。

龍樹なんかあらっぽいもんです。

唯識なんかじゃ、

空、一切は空だというようなことは

言わんのであってですね。

 

一切は空だというんじゃなしに、

空というのは一切法の執着が空だと

いいますわね、むなしいというのは。

一切法がないというんじゃない。

法というのものを実体化している

その固執を否定するのであってですね。

あの何も無くなるというような

ことではないんです。

 

無になるこいとじゃないと思いますね。

無だの有だのというようなことは

仏教にはありゃせんと思いますよ。

無でもないし有でもない。

 

だからして無というのは実体化してですね

それに絶対というようなものを

つけてみたところで同じことです。

絶対無というようなことを

いってみたところで。

有でもそうですね。

 

何かが、ひとつのそれ自身に実体性を

もった有というようなことを考える

ならですね、

そういうものはみな、固執でしょう。

執ですね。

固執ですわね。

固執ということはね、

そういうものがあるんじゃない、

 

あると思うという思いがあるだけで

あって、

その思いを固執しとるだけだ。

 

どんなものを考えてみたところで、

ただ物があるんじゃない、

物があると思っとる考えがある

だけだという話しだ。

だから、

それ自身としては無いものだと。

こういう意味ですね。

 

だから空というものも

実体化して空を固執するとですね、

それに縛られるのです。

空そのものは縛りゃせんで、

人間を解放するんだ。

しかし空という実体が人間を縛るんだ。

それが、沈んだことです。」

 

なかなか、思いあたる所があって

この講義は聞いた時はなるっほどと

思いつつも、

この固執ということの凄まじさは

ちょっとやそっとのことでは

とれないものです。

 

やはり、繰り返し繰り返し聞いて

薄皮をはぐように

その固執することの思いを

剥いていかなければならないように

感じたのです。

 

 

 

 

 

仏教でいう七という転換点

今読んでいる『十地経論講義』も

ずっと第七地で、

私が聞き始めた時も「第七地」でした。

数十年ずっと第七地が続いているわけです。

 

「七」という数字も面白く

仏教ではまず最初にお釈迦さまの誕生です。

お生まれになるとすぐ「七歩」歩まれて

天と地を指さし「天上天下 唯我独尊」と

産声をあげられたという。

この時の「七」というのは、

迷いの世界である「六道(ロクドウ)」を

一歩超えられたということでしょう。

 

1.地獄 2.餓鬼 3.畜生 4.阿修羅

5.人間 6.天

 

という六つの世界です。

七歩というのはこの六つを超え

第七番目が「声聞(ショウモン)」という世界

ここからが仏の世界です。

声を聞く、ということから始まります。

素直に先生のいうことを聞く、

つまり今でいえば学生の立場でしょう。

 

聞くことによって、

今までの迷いが終わり、仏の世界が始まる

ということです。

お経の最初の文句が「如是我聞」という

言葉で始まります。

このようにお釈迦さまの教えを聞きました

という、聞くということから

仏道修行は始まります。

 

お釈迦さまは生まれながらにして

この六道という迷いを超えられたという

そういうことを象徴的に表現しています。

ですからこの「七歩」ということが

迷いからさとりへという大きな転換点に

なっています。

 

『十地経』の第七遠行地(おんぎょうち)も

大きな転換点です。

この七ということも、1.2.3.4.と

段階的にあるのではなく、

この十を大きく分けると、

第七番目が中心で七地の前が

「前地(ゼンチ)」初地から六地まで、

七地の後が「上地(ジョウチ)」といいます。

八地・九地・十地です。

 

面白いのは経典に出てくる言葉で

「前上地勝差別」(ゼンジョウチショウシャベツ)

というのがあります。

いろいろ略されている言葉で、

詳しくは

第七地というのは前の地に勝れ

後の地にも勝れている

といいます。

前の地に勝れるというのは

分かる気もしますが

後の地にも勝れるというのは

ちょっと分かりません。

ここに第七地の大きな特色があります。

 

ですから、『十地経』を大きく分けると

初地から六地までが「前地」で

中心が「第七地」

後の八地から十地までが「上地」と

この三つに分かれています。

 

ですから、この『十地経論講義』は

第七地を中心にずっと数十年にわたり

講義されているのです。

飽きないのだろうかと、普通は思うのですが

やはり、経典の言葉を愛されているというか

泉の如く、

次から次へと話が展開していきます。

経典の言葉は変わらないのですが

その説明の話の内容が

展開いていくところが

この講義の面白いところです。

 

七地でも重要な言葉が数多くありますが

ここでは、

「固執」「執」ということが出てきます。

経典では、

「七地沈空難(しちじじんくうのなん)」

という言葉で出てきます。

 

煩悩も私たちを悩ますものですが、

この「固執・執着」ということも

厄介なもので、私たちを苦しめるのです。

物にも執着するし、思いにも執着する。

 

そろそろ、整理したらどうかと

そういわれても、あれは何かの記念だし

これはあの時の思い出があると、

私にとっては大事なものなのですが

第三者にとってはゴミ同然のものばかり

ということなのでしょう。

そういわれても、捨てられない。

物に対する執着も激しいものがあります。

 

思いもそうで、

何かしら腹が立って、ふと思い出すと

また腹が立ってくる、夢にまで出来て

また腹を立ててそのことにびっくりして

目を覚ますという。

よく考えれば、

その事実はとくの昔に済んでいるのに

あの時、こういわれたとか、

そこまで酷いことを言わなくてもいいのでは

ないかと、思い出しては腹を立てる。

ですから、自分の記憶に対して

腹を立てているのです。

 

まあ、冷静になって考えれば

そういうことですけど、

その当事者になって見れば大問題です。

その執着がいろいろの事件を引き起こして

いるというのも事実です。

いま週刊誌をにぎわしている事件も

もとをたどれば、

その人の記憶に対する執着が引き起こす

ということになるようです。

 

「七地沈空難」ということも

なにも「空」が悪いのではない。

空に沈むのが悪いのです。

沈むということはどういうことか

これは自分の考えに固執するあまり

心がはたらかなくなってしまう、

という、自分の考えに落ち込む

そういうことが沈むということでしょう。

 

第六地は「般若現前地」

般若の智慧が目の前に現れてくる

という位です。

普通はここでもういいのではないかと

般若の智慧が目の前に現れて来たのだから

と、そう思うのです。

ところが、

第七地は「遠行地」遠くへ行くと書きます

これは行が完成したということを

表しています。

 

というのは、

六波羅蜜でいうと

第六番目が般若波羅蜜です。

これが十波羅蜜となると

第七番目が方便波羅蜜となります。

何か『十地経』と相呼応しているようで

六地が般若現前地で

六波羅蜜でいうと般若波羅蜜

それで

七地は遠行地が

十波羅蜜でいうと方便波羅蜜

 

六地で得た般若現前が

この智慧のままでははたらかない

はたらけない、

それが方便という智慧を得て初めて

具体化されて

はたらきだすように思います。

 

ここに、方便ということが出てきて

仏教というものがより具体化された

智慧が頭の中だけでなく

より身近なものになっていく、

こういうところに

第七地、そして波羅蜜では方便波羅蜜

ここが一番肝要な所に思えます。

 

だから、七地ということをずっと語られる

という大きな意味があるようです。

また、そこだけを語り続けられる

安田先生の凄さもあるようです。

 

経典というものもただ羅列的に

見ていくのではなく、

肝心なところを見つけそこを中心に

学んでいく

そうすると、経典自体が平面的ではなく

立体的に読めるのではないかと

思うのです。

 

 

 

煩悩も 経過観察 !

医学の方で「経過観察」

ということがあるようです。

治療するのでもなくそのまま放置する

のでもなく、しばらく様子を見る

ということのようです。

たとえば、

自己免疫性疾患という、

普通は異物が入ってくると色々の免疫が

働いて退治するのですが、

その機能が変調をきたすと

自分の臓器を敵とみなして攻撃してくる

何とも厄介な病気のようです。

それはステロイドを使うと

とても効果があるようなのですが

その反面副作用がある。

それでは止めておくかというと

そうではなく、

進行の経過を観ていくということで

経過観察というようです。

 

実にいい言葉です。

そういう話しを聞いて思い出したのが

錆ということがあります。

 

鉄の錆は自分から出て

自分自身を腐らせていく

 

ということわざのような話があります。

鉄の錆というのは

よそからやってきて

鉄を錆びさせるのではなく

錆のもとは自分自身の中にもっている

ということです。

 

人間の煩悩も同じことで、

煩悩というのはよそからやってくる

ものではなく

自分自身の中にもっているのです。

それが、あるとき、

自分自身を攻撃し始める。

それで、私たちを悩ませるのです。

煩い悩ませると書いて煩悩

 

しかし、

普段は煩悩とは気が付かない

何かをやろうとしたときに

はじめて障害となってくるので

それが悩ましいものとして自分自身を

苦しめてきます。

 

煩悩をいかに対治するか

それが修行であり一番の問題です。

ところが

「経過観察」ということを聞いて

煩悩も頑張って対治するのではなく

煩悩を経過観察する、ということが

大事ではないかと思うのです。

 

煩悩とは一体なんだと、

なぜ苦しめるのか何が苦しめるのか

そういうことをよく観る

『十地経論講義』の中では、

「好き嫌いを超えてよくみる」

ということが出てきました。

先生も講義の中で

「観察」ということを

よく話されています。

第七地で出てくる「止観」という

こいとです。

 

七地の行は「止観双行」といって

止と観とが成り立つ

止は静であるし、観は動である

動静一如という表現をされていました。

反対の概念が同時に成り立つ

頭で考えたら矛盾が生じますが

実践したら同時に成り立つのです

 

というように、

煩悩ということもよく観察する

「経過観察」です。

何が煩悩なのか分からず、

「自分には煩悩が一杯あって

うまくいかない」

とかいいますが、

それこそよく見るということで、

 

貪瞋痴(とん・じん・ち)

とい根本煩悩があって、

それに付随してくる煩悩が

随煩悩(ずいぼんのう)というのがあります。

その随煩悩にも大中小があって、

これはなにも、

煩悩に大中小があるのではなく

その煩悩の起こる範囲です。

 

小随煩悩は十ほどあって

中随煩悩は二つです

それに大随煩悩が八つあります。

百八の煩悩といいますが

なぜ百八というのですか

いろいろ計算の仕方があるのでしょう。

 

貪瞋痴という

むさぼり、いかり、知らないという無知

これが三大煩悩です。

貪は水に喩えられます

静かに自分でも気が付かないうちに

自分の心をむしばんでいく

瞋はいかりで火に喩えられます

はげしく、一瞬で全てのものを

失くしてしまうという

痴は、本当のことを知らない

という無知です

悪いこいとに、本当のことを知らない

というとそれだけで終わらなくて

本当でないものを本当のものとして

それに固執していくという

そういうことが誤りの始まりですが

 

そういうことも

じっと、経過観察する

頑張って対治するといって、力づくで

やっつけてしまうのでもなく

かといって、煩悩はどうにもならないと

諦めてしまうのもなく、

煩悩がどうやって、どのような時に

起こるのか

そういうことを経過観察する

 

そういうことも大事なような気がしました。