五条の木屋町を下がると
むかしは「五条楽園」といって
若い頃は行ってはいけない、と言われ
通りすがりに「五条楽園」の看板を見て
なにやら違和感を感じながら
過ぎ去っていました。
今は、木屋町通りに沿って流れる高瀬川も
美しく整備され、多くの民宿もできて、
外国からの人たちで賑わっています。
その入り口というか
五条通を入ったすぐのところに
大きな榎を見ることができます。

その木の根元には

こういう石柱が立っています
「源融(みなもとのとおる)河原院跡」
よく読んでみると
「光源氏」のモデルになった人とも
いわれています。
この方は嵯峨天皇の皇子でありながら
皇族から離れ源氏の姓を名乗られ
その後優雅な生活を送られた
ということです。
歌の名手でもあり、
『百人一首』にも、河原左大臣として
「陸奥のしのぶもじずり 誰ゆえに
乱れそめしに われならなくに」
という歌を詠んでおられます。
陸奥に赴任した折、その時の景色が
忘れられなく
この河原院にもその景色を再現され
そこで見たであろう、
塩をつくる竈を作らせ、そこから登る煙を
楽しんだといわれています。
そこが日本で最初につくられた庭園と
なっていたようです。
ちなみにこの「竈」という字も
書き方が難しく
穴かんむりに、火の神様である祝シュク
祝融神がいる穴ということです。
書いてみるのも面白い。
ということでしょう
この近くの地名は「塩竈町」といい、

また、塩竈という名前の方も
いらっしゃるようです。
千年以上も前「光源氏」が楽しんだで
あろう、その塩竈が今でも
地名となり、名前となって残っているのは
不思議なことです。
そういうことに思いをはせながら歩いてみると
いろいろな発見があるものです。
この塩竈町があるところは
五条通の富小路を下がった場所で、
お寺が立ち並んでいます。

これも秀吉による政策で、
鴨川を一つの防波堤とし、そこを越えてきた
ものを寺町で防ぐという、
この一帯を下寺町といい、秀吉により
お寺が集められたということです。
四条通から御池通りにかけて
新京極通と並行して寺町通りがあります
お寺というのは非常時には
兵が休む広さもあり兵糧もあり水もある
ということで、戦のときには
お寺はいろいろと利用されたようです。
信長も最初に京に入った時
陣を敷いたのは東寺といわれています。
また、西郷隆盛も東寺を大本営にして
鳥羽伏見の戦いの折りには
五重塔からその状況を眺め指揮をとったと
ということがいわれています。
また元に戻って木屋町通りを歩いて行くと

またこういう一昔前はモダンであった
というような建物も残り、
今なお現役で活躍しているようです。
京都という町も時代と共に変化して
いきます。
源融がいたころはもちろん
高瀬川もありませんでした。
白河法皇の三不如意にもあるよに
鴨川というのは自分の思うように
ならない暴れ川だったようです。
この源融の屋敷もたびたび川の氾濫に
悩まされていたようです。
源融が亡くなった後は
子供に引き継がれますが、
やはり荒れ果てて
その庭の中心に合った籬マガキの島の
榎だけが残ったようで
それが今繋がっているこの榎のようです。
往時は
その塩竈もわざわざ難波から海水を運んで
毎月、塩焼きをしたというのです。
何とも風流なことをしたものだと思います。
時代的に空海と重なる時があります
たぶん、お互いのうわさは
聞きおよんでいたことでしょう。
なんだか、点として見ていた所が
時代の流れを見ていくと
何となく景色が広がってくるようです。
今、京都博物館では
「源氏物語 王朝のかがやき」
という特別展が開かれています。
こういうことを踏まえて
展示会を見るのも面白いし、
また、光源氏のモデルであろう
源融の屋敷跡を見ながらその付近を
散策してみるのも趣あるものでしょう。

