仏教では差別と書いて
「しゃべつ」と読み、
意味も普段使う意味と違っています。
それぞれに相違のあること、
お花屋さんには沢山の花が並んでいます。
薔薇もあれば、ユリもあり、菊もある
というように、色形も違う
相違があるわけです。
けど、花としてみたらその本質は同じ、
そういうことで、差別と平等ということは
対の句として使われます。
講義が始まるときは繰り返しのようですが
この五種の差別から始まるようで
その五種ということについて忘れないように
書いておきます。
1.楽無作行対治差別
(ラクムサギョウタイジシャベツ)
ここで言う対治とは、普通でいう退治と違って
鬼退治の場合は退治を書き、
自分の煩悩と向き合う意味では煩悩対治と
同じ対治でも区別して使います。
ここでいう楽無作行というのは
六地で得た「空の智慧」に安住してしまい
修行が止まってしまう
そういう心を対治するというのです。
2.彼障対治差別
(カノショウタイジシャベツ)
3.双行差別
(ソウギョウシャベツ)
4.前上地勝対治差別
(ゼンジョウチショウタイジシャベツ)
5.彼果差別
(カノカシャベツ)
とあります。
ということを踏まえて講義を読むと
「力(リキ)とか願とか廻向(エコウ)とか、
みなこれは方便智というもので、
まあ何といいますか、
根本智は、第六地で終わっているんです。
かえって根本智から起こった方便なんです
そういうところに七地というものの
面目があるわけです。
これがつまり、
八地というものをなんでしょうね、
ちょうど六地から八地までの間に
ですね。
それがこの第七地というものが
これが初歓喜地から始まった行が
終わったと共に
また八地以上に展開されるものを
引き出してくると。
上地とこういっとるんです。
八地以上の地を上地(ジョウチ)という。
そうすれば六地以前は、
下地(カジ)といいますね。
上、下という、
ここにもやっぱりその七地にもですね、
七地のところの経文にもですね、
この前読みましたように、
前上地勝差別という第四番目ですね。
前上地勝差別。
世親の解釈によるというと、
七地の経文は文章の段階の上にですね。
五つの差別があるというわけです。
この差別によって、
なんぼ差別があっても、
全部が七地としては、同一なんです。
だから、
この七地そのものをですね、
五段の文章の差別によってあらわして
くると。
この四番目にですね。
前上地勝差別という一段がもうけられとる。
こういうところからも
七地というものの意義をよく表しとる。
前はこれ下ですね。
それから上は上ですね。
前と上との地に、
勝れとるという差別なんです。
これもおかしい、
ちょっというと、考えたらおかしいが、
下の方に勝れとるということは
わかるけども
上の方に勝れとるということは
ちょっと分からんでしょう。
前に勝れとると、
後のものが前のものに勝れとると
いうことは分かるけど、
しかし後のものに対して勝れとるというと
ちょっと文章が分からんようです。
しかしあのなんですね、
七地というものがやっぱり一つのですね、
前を超えたと、それで七地になった、
前に勝れとるということは
明らかなことだけど、
その前に超えた力で、
また後を引き出してくると。
だから七地がなけりゃ八地を引き出す
ものはないわけです。
そうすれば八地以上、
上地を引き出す力をもっとるわけです。
そういう意味においては、
上地よりも勝れとると。
この意義がですね、前の、
六地以前とそれから八地以上との
一つの媒介点になるというようなことが
これがまあ七地の面目なんです。
七地の面目は一語にすれば
方便にあるわけです。」
繰り返しのようですが
講義を聞いている私たちにとっては
一月も間が空くと、
また新鮮に初めて聞くように
聞こえてくるのが不思議です。
この差別ということも、
良寛の歌に
「いかなるが苦しきものと
問うならば
人を隔てる心とこたえよ」
というものがあります。
人の心も恐ろしいものは煩悩というより
私と他人とを比べる心です。
ものを持てば持ったで
私の方がいいものだと
持たなければ持たないで
あいつがもってるのに自分も欲しいと
こういう心を自他差別心というのでしょう
常に自分と他人を比べて
勝った負けた、あいつより上だ下だと
そういう心はなくならないものです。
自他差別心を唯識では末那識(マナシキ)
というようです。
第七番目の意識です。
それで八番目の意識を阿頼耶識(アラヤシキ)
といいます。
そいう自分勝手なこころを
黙って蓄えていくのが八識の阿頼耶識です
しかし、
こういう問題はやはり世間の意識では
読めないようです。
面倒くささに耐えなければ読めない。
面倒くさい問題を丁寧に読んでいく
こういうこともこういう仏典を読む
一つの工夫がいるように思います。