本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

己をむなしゅうして

「己をむなしゅうして」

という言葉、その当時ブームというか

課題になった言葉です。

そのことをどのように具体的に実践するか

ということがそれぞれに問題として

突きつけられたのです。

 

その言葉を高校生にどのように受け取って

もらい実践させるのか

三浦先生も随分悩まれ、

一つの答えとして、

このように話されていました。

皆さんにとって色々関心事や興味があると

思いますが、この高校3年間は、

いろいろな遊びや女こととか

そいういうことを括弧に入れて

勉学に励んで下さいと、

そして、先生の話されることを

よく聞いて、あの先生は好きとか

この先生の話は面白くないとか、

そういうことを言わずに、

好き嫌いを超えて素直に聞いてくださいと

そのように話しておられました。

 

私たちには

好き嫌いで物事を見るんじゃないと、

自分を抜きにしてどんな話でも

まずは無になって聞くと、

そういうことを話されていました。

 

「己をむなしゅうして」ということ

安田先生もいろいろのところで話をされ

このことがやはり仏法を学ぶ基本姿勢だと

話しておられます。

 

講義では、

 

「だからしてこれはあの、

止観というのは、

我々が、へ理屈をいわずにね、

たとえてみたら真理なら真理を、

真理はどういうものだろうと、

こう、

そういう具合にいかずにね、

真理をつまりこの、えー、ですね、

真理というものを、

自分らの自然生活のもっとる関心で

真理を見ようとせずにね、

自分の都合のよいように見るもんなんです、

人間というものは。

 

仏教がいろいろ、

止観なんか考えたのは、

ものを考え、真理は何だと考えても、

真理になるかならんかわからんと。

むしろ

真理自身に語らしたらどうだろうと。

我々はそうつかもうとせずにね。

我々が真理は何だと こう、

我々が主観でもって主張して、

つかもうとせずに、

むしろ真理そのものを

己をむなしゅうしてね、

主観を否定して、

真理自身を語るようにしたらどうかと、

こういうのが仏教の考え方です。

 

なんぼ都合が悪くてもそれは見るんです、

止観というのは。

自分に都合が悪くても、それを見る、

静かに内観するんだ、

自分の都合を超えてですね、

好き嫌いを超えて、

これがまあ非常に大事なものだ。

 

そこに勇気がいるんですよ。

どんな自分に都合が悪かろうが

冷静に見ると。

これはまあそういう道を見つけてきた

のでね、仏教は。

仏教に書いてあることは何かというと、

冷静に見た人の言葉が書いてある

のであってですね。

何か冷静に見ん先に言葉が与えられる

というと頭を押さえつけられるようだけど。

しかし、冷静に見た人が

見た通りに語ったんだ。

 

あの、止というのはものをとどめて

ぼんやりしているという意味では

ないのであって、

己をむなしゅうして、

ものになるということです。

それが聞くということなんです。

ものになると。

真理が自己を語る言葉を

まず我々は無心に聞くということです。

それをすぐ理性に合わせてたりなんかして

聞かずに、

おかしいぞということをいわずに、

まず、己をむなしゅうして

聞くというこいとです。

 

聞いたように考えるといいますが、

聞いたのを考える、

翻訳するんじゃなしにですね、

聞いたのを聞いた内容を自分の考えに

翻訳して考えてみるんじゃなしにですね、

聞いたように考える

というんです。

聞いた法に照らして、

自分を照らして、

自分を考えるわけです。

 

そういうような道がまあ今日でいう

反省じゃないでしょうか。

内観とか。

これはあの、止という字は

内観といってもいいです。

内観するんです。

 

だからそういうようなレッテルに

迷わされんということが大事です。

イデオロギーとか思想。

よくそれを何というか、

ドイツ語で接続法という文章の構文が

あるですね。

『と言う』『と彼は言った』という

言い方ですね。

『そう彼は言っとる』という言い方です。

間接話法というでしょう。

 

けど『彼はそう言っとる』と

こういうふうに

カッコに入れて物を見るんだ。

そういう態度が必要ですね。

己をむなしゅうして、 あのー、物を見る、

普通はそれを客観的に物を見るという、

主観をやめて客観的に見る

というんだけど、

そうするとまあ

科学的ということになる。

好き嫌いを止めて物を客観的に。

 

けど仏教のいう止観は … 。

科学という方法、科学は外観なんです。

見るは見ても。

なんか客観的という立場じゃない、

主観的でもないし、客観的でもない。

主観客観というようなことは、

早すでに物を考えた型なんです。」

 

と講義は続き展開していきます。

 

ふと思い出すのは宮沢賢治の

『雨ニモマケズ』の詩です。

その中に、

 

『アラユルコトヲ

 ジブンヲカンジョウニ入レズニ

 ヨクミキキシテワカリ

 ソシテワスレズ』

 

という言葉があります。

簡単な言葉ながらよく味わうと

意味深い内容を含んだ文章です。

「ジブンヲカンジョウニ入レズ」

というのが、先生のいう

「己をむなしゅうして」という

ことでしょう。

そして、

「ヨクミキキシテ」

ということが冷静に見る、

「ソシテワスレズ」

憶念不忘という、

講義の中では、第一巻の初っ端に

「見て敬い聞いて忘れず」

ということが出てきます。

 

私たちの一番大切な

基本の姿勢ではないかと思うのです。

 

 

 

 

 

「よく読む」ということ

読み書き算盤ではないですが、

読んで書いて、

ただそれだけでいいのだろうかと

思っていたのですが、

ふと、腑に落ちた一文に出会いました。

 

その本は『唯識論講義』という

安田先生の本なのですが、

本多弘之先生の編になるものです。

よく整理されていてとても読みやすい本です。

『十地経論講義』は

先生の言葉を一言一句もらさないように

編集されています。

ですから、「ああ」とか「うん」という

先生のつぶやきまで丁寧に書かれてあります。

その時の講義を聞いていた私にとっては

まるでその場の空気が蘇ってくるようで

それはとても臨場感のある編集になって

います。

 

今まで読んでいる中では

この『唯識論講義』はとてもしっくりくる

というか、読みやすい編集です。

 

その中にありました一文を紹介します。

 

「私たちが勉強して学んでいく場合に、

どういう方法があるかと言えば、

よく読むことだと思います。

何もそれ以外に手はないと思うのです。

『よく読む』という時には、

もう止観(シカン)が具(ソナ)わっている。

改めて止観ということをするのではない。

『よく読む』ということの中において、

既に

己(オノレ)を空しくして全身が耳になるのです。

そして、

それを聞いてそれを執持(シュウジ)している。

具体的に言えば『よく読むこと』であって、

他に何も方法はないと思います。

よく読みもせずに、

いろいろと頭で考えるものだから、

話が分からないようになってくるのでは

ないでしょうか。

だから、この聖典の言葉も

間違えて暗唱していた場合、

その人の学問は信用できないと思うのです。

それは用意として大事なことだと思います。

 

たくさん読むというのも一つの読み方で、

一年に十二冊の本を読む

ということもあるかも知れない。

しかし一冊の書物を十二ヶ月かけて読む

という読み方もある。

どちらが上だというわけにはいきません。

たくさんの書物を浅く読むよりも、

一書に徹するということがある。

一冊の書物を繰り返し巻き返し読むという

方法と、読み方も二通りあると思います。

 

私は勉強する時間がないとか、

忙しいとかいうことをよく言うけれども、

それでは、どれだけ時間があれば

勉強できるのかということになると、

あやしいのではないでしょうか。

朝から晩まで読んだところで、

そういうことは学問的にも不可能なのです。

朝から晩まで読んだ内容を憶えている者は

一人もいない。

たとえ十二時間読んでも、

憶えているのは30分程の間に憶えられる

ようなものが頭に残っているのです。

 

つまり憶えようと思って読むのではなく、

自然に憶えられる内容であって、

努力して憶えようというのはクソ勉強です。

そうではない。

読めば自然に記憶される。

そういうものが『総持(ソウジ)』だと思います。

 

『耳の底に留まる所』というわけです。

だから、そんな時間の要るものではない

のであって、一日歩いていたり、

電車に乗ろうが汽車に乗ろうが、

自転車に乗っておろうが、

その間じゅう思い出して、

常に頭で反復できる範囲でよいのです。

それ以外のことは不可能であるし、

たとえやっても、

ただくたびれ儲けというようなものです。

一日中どこへ行っても、

記憶しておかれるような内容です。

大して時間の要るものではない。

そういうのが身につく学問ではないか

と思うのです。」

 

他のところはやはり唯識について

詳しく述べてあるのですが、

私にはこういう短い一文が響いてくるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

能入寂滅成 而不証寂滅定

難しい言葉ですが、

「よく寂滅定に入って、

   而も寂滅定を証せず」

というように読みます。

 

短いこの一句ですが、この文句が

第七地の中心というか眼目のような

言葉になります。

 

「而して」、而(ジ・しこうして)という

字なんですが、

この一字に注目しておられます。

 

お酒好きな人は「而今」(じこん)という

有名な銘柄があります。

しこうして今、という。

「而今而後」(じこんじご)という熟語も

あります。今からのち、という意味です。

「而して今」という言葉には、

いろいろご苦労があってそして今があるんだ

というような意味を感じるのです。

 

寂滅定に入ったけれども、

寂滅定を証しないと、

けれども、と簡単に言っていますが

けど、とか、しかしというような

簡単な意味で而という字を使われたのでは

ないと思います。

それからもう一つ、

ここに出てくる「寂滅」という言葉は

略して「滅」ともいいます。

迷いの世界から離脱した境界で、

涅槃と同じ意味で使われます。

「寂滅為楽」(じゃくめついらく)という

熟語もあります。

本当の楽しさというのは煩悩が滅せられた

そういう世界をいうのでしょう。

寂滅をもって楽となすと。

 

講義では、

 

「それで世親の解釈を見てみると、

有を捨てざるをもって、という。

有ですね、有を捨てんから、寂滅を証せん、

とこういってます。

あるとかないとか、

こう分別に入らんのです。

あるんでもないし、ないんでもないんだ。

 

そこにやっぱり大事な而という字がある。

これがさっき言ったようにですね、

而してというような、

これが拒中律(きょちゅうりつ)を

表しているんじゃないかと思うんです。」

 

ここでは、論理学の拒中律・矛盾律という

ことで話を進められておられます。

「而」という言葉を説明するのに

論理学の拒中律ということで話されます。

 

それで講義ですが、

 

「音楽でいうと、第九シンフォニー

ということがあるが、

『十地経』というシンフォニーです。

とくにその中に七地のシンフォニーの主題、

主題ですよ。

この能く寂滅に入りて而も寂滅を証せず、と

こういうのが主題になっているわけです。

七地という楽章を貫いている。

 

何遍も、これがいろいろと形をかえて

展開しているんです。

一遍いってもう二度といわんというんじゃない。

いろいろ … ちょうど音楽に編曲という

ことがあるようにですね、

いろいろ形をかえてこれを展開している。

 

だからして、それが主題でしょう。

音楽のサブジェクト(subject)になっている

わけです。

第七地の楽章の主題です。

そういうものが、

寂滅に入って而も寂滅を証せずと。

 

それは、証せんというのは沈まん

という意味です。

それはたとえがあって、

ちょうど、我々が大海に乗りだした時、

大海に乗り出すんだけど、

大海に難船して沈没してしまわん

というんです。

それは海を知り、船を知っておるから。

海を知り、船を知るというのが

それが方便智です。

沈まんというんですね。

 

寂滅にとらえられんというんです。

それはですね、

初めは解脱月菩薩が、

何の地より来ってこの寂滅定に

入ったんかと、

こう問うんですが、

これは念を押しているわけです。

 

それで、これは第六地から来て

これへ入ったんだと。

第六地にも寂滅定があったんだと。

第六地の寂滅を出て、

そして、第七地の寂滅定に入ったんだと。

第六地の寂滅定を出てね、

もう寂滅定を捨てたんではないんです。

第六地の寂滅は、

努力して寂滅になったんです。

 

七地に来ると、自然(ジネン)の寂滅なんです。

だから能という字が使ってある。

自ら寂滅であることができるんです。

そういう能力が成立してきたんです、

第六地をくぐって。

 

第六地の場合はまだ、努力して

三昧に入ったんだけど、今度は、

能く入ると。

能です、こういうのが七地。

第七地は寂滅がないんじゃない。

寂滅があるけども、

しかし寂滅にとらえられんというんだ

沈まんとね。

 

これが非常に大事なところです。

寂滅がないんじゃないと。

能く寂滅を得るんだ。

しかも、寂滅にとらえられんと。

 

何でも、いいもんでも、

とらえられたら死んでしまうんです。

どんないいもんであっても、

能く寂滅を得ることができる。

けれども、寂滅にとらえられないと。

こういう一つの世界というものが、

それが七地の主題です。

 

この、一句一行の言葉だけど、

これが無尽の、

一つの味をもっているんです。

ある意味からいうと、

これだけわかればいいんじゃないかと

思うんです、『十地経』といっても。

寂滅に入ってしかも寂滅を証せずと。」

 

普通は寂滅というさとり、涅槃に入れば

もうそれでいいと、

そこに安住してしまうものです。

けど、そこを許さなくて

寂滅に入るけれども寂滅に安住しない

そういうことが

十地経の精神のように思います。

 

歩み続ける。

難しいようですが、

到達点がないという到達点

それしかないようにも思うのです。

 

 

 

三業荘厳(さんごうしょうごん)

三業というのは身・口・意

身業(しんごう)口業(くごう)意業(いごう)

の三つです。

私たちの行いはこの三つに集約されます。

身体で行う、言葉を発する、心に思う

ということで、いずれの行為もこの三つに

なります。

 

そこで、経典を見てみると

『その菩薩畢竟じて不可思議の身口意業を

成就す』と。

というように出てきます。

このことを講義では、

 

「畢竟(ひっきょう)という字が付いてますが

不可思議の三業と、つまり、

身口意業というのは三業ですね。

だからこの三業というものをですね、

この行というものを明らかにする。

 

行と業とは、概念がちょっと違う、

しかし、離れることのできない関係

があるんです。

行はこれは修行という意味です、行ね。

それから業というのは、

為というような意味ですね。

作意(さい)とか、

為というのはこれは為すというんです。

まあ行為です。行為の為です。

 

行は修行といったような意味に

なるんじゃないですかね。

実践するという。

行は実践、菩提心を実践するというのが

行です。

こういうような概念で、そういう意味では

区別があるんですけども、

菩提心を実践するのに、

三業をもって実践すると。

 

それで三という字をそろえてあるのは、

片手間にせんという意味です。

全存在という、

全存在をもって願を行ずると。

片手間にやらんという意味です

やるだけのことをやるとか、

そういうことじゃない。

やるだけのことをやるとか

そういうような意味じゃないですね。

何かそういうような弱い言葉じゃない

だろうと思います。

 

三業荘厳といいますからね。

その、三業をもって荘厳する。

耳で聞くとか、口でいうとか、

そういう分析的な話じゃなしに、

聞くときには全身が耳となるとか。

耳になるんだ、人間がね。

だから、いうときにはもう全身が

言葉になるとか。

こういうような意味じゃないかと

思います。

 

それを分析していえば、業というのは、

仏教の方で何を業というかと、

業の本質ですね、

行為の本質は何かというと、

思(し)というんです。

思(し)というものが業というもの、

意思ですね。

だから意業(いごう)というんです。

 

厳密な意味で業といったら意業なんです。

身業、口業というのは

その意業を表現している。

そこにやっぱり、

表現というような意味をもつんじゃないか

と思うんです。

意思ですね。

意思の表現なんです。

また意思というものは表現しなければですね、

表現しなければ満足せんものが意思じゃない

かと。

決断し、表現するんです。

 

だから行というのは何かというと、

これは意思じゃなしに、

願というんでしょう。

願というのがこの行の本質なんです。

こっち(行)がつまり無上菩提の願ですね、

今『十地経』でいえば。

仏道の願です。

仏道の願というもの、

その願というものが行の本質なんです。

 

人間に行為とか実践とかというようなものが

成り立つということは、

人間存在が表現的だからだと

思うんです。

 

これは、表現というと主体がある。

これはどういうこいとになるかというと、

主体が何かを表現する、

主体が主体自身を表現することによって

主体を完成していくわけです。

主体が表現を持つことによって

主体自身を完成していくんです。

 

それを完成するのを荘厳というんだと

思うんです。

三業荘厳といいますね。」

 

人間存在が表現的、というのも面白い

人間は表現したいものです。

暴走族でもあのバイクで轟音を立てて走る

それも自分の表現なのでしょう。

いろいろ方法を知らないとああいう形に

なるのかもしれません。

 

今誰でもやっているSNSでの表現も

自分という存在の表現なのでしょう。

インフルエンサーとかインスタグラムなどで

いろいろ投稿するのもある面では

自己の表現なのかもしれません。

 

そこからもう一つ考えられるのは

私の勝手な思いかもしれませんが、

真言宗で、「三密」ということをいいます。

三業ではなく、三密と。

業といわずに密といっています。

身密・口密・意密というように。

人間の業と違って仏の業だから密と

区別したのかもしれません。

 

人間の業というのは、

「無始よりこのかた妄想に纏われて

誤って無量不善の業を犯す」

という言葉があります。

ですから、私たちの業は意識する

しないに関わらず、顚倒しているので

罪を犯しているのでしょう。

 

そういう業と区別して三密と

「三密相応」ということもあります。

その三密が相応している。

身密・口密・意密と別々にあるのではなく

互に相応している。

なにかそういうことと、

三密荘厳ということが、

相通じるものがあるように思うのです。

 

何かこういうこいとをヒントに

三密ということをただ仏の業だと

言ってしまわずに、考え直してみると

面白い発展があるかもしれません。

 

 

 

無尽蔵の世界

「無尽」(むじん)という言葉も

いろいろに使われます。

無尽講とか、お寺を守るためにあるという

無尽灯という、光が次々に灯されていく

そのように教えが広がっていく、

まあ、本来は尽きることのない、という

意味でしょうが、

「無尽」という重要な言葉です。

 

講義を見ていくと、

「『華厳経』の特徴に、

無尽ということが、無尽縁起という、

十二縁起、業感縁起とか、

唯識なんかでは阿頼耶識の縁起とか、

華厳では無尽縁起ということをいいます。

これは『華厳経』がいっているわけでは

ないけども、この華厳宗の哲学が

そういうんです、無尽縁起と。

 

無尽ということは非常な特色ですね。

無尽の世界ということが。

無尽蔵、無尽蔵の世界です。

なにかあの、

仏教の世界観というようなものは、

今日の言葉でいえば世界観ですけども、

仏教の言葉でいえば、法界、

法界観です。

 

人生観とか世界観というものが、

仏教の世界観というものは、

つまり、

三昧智慧によって開かれた世界観です。

三昧に入って、

そうして入るというと、

そこに世界が開けてくるんです。

 

三昧に入るのが、それが三昧、

そうするとそこに、

物自身が自己を語っていくんです。

それは世界が開けてくる。

そういう世界、

そういう一つの世界観です。

 

これはやっぱり大事。

そのために仏教学というものは、

ただ体験というようなことを

言っていたらいかんので、

やっぱり思想の事業というものが

いるんです。

世界観の事業ですから。

ただ楽になったとか、

あるいは有り難いとか、

そんなことを言っているんじゃないんです。

やっぱり世界観というものが大事なんじゃ

ないでしょうか。

 

よく西洋の世界観は有の世界観で、

仏教は無の世界観だと、

よく禅の人はいうし、

鈴木大拙もそんなことをいうけど、

それはあんまり早合点じゃないかと

思います。

 

無というようなことを別に決めなくても

いい、それよりも無尽蔵ではないかと。

無尽の世界というものが

仏教の願うところじゃないかと思うんです。

無尽ということはね、

無尽というものがあるんじゃない。

 

これが行だと思うんです。

行というもんじゃないかと思うんです。

できあがった世界観というような

もんじゃない。

世界観が、

世界観自身を明らかにしていく。

無限に休止することを知らん

というんだから、行ですね。

そういう… …。

 

そしてこれはね、

大言壮語じゃないんです。

それが、どこにその世界があるかというと、

日常生活じゃないかと思うんです。

ええ、理想主義じゃないんだから。

日常生活に行ぜられると、

無尽の行がね。

そういうもんでないといかんと思うんです。

 

そういうものをもたんというと

人間はね、法螺も吹けん。

法螺を吹く必要もないし、

遠慮する必要もないというような。

つまり、

法螺と遠慮はコンプレックスだと

思うんです。

コンプレックスね、劣等感です。

 

劣等感と増上慢という意味であってね、

何でも

日本でも明治時代には大日本といって、

大という字をめちゃくちゃにつけていた。

今でも大という字をつけるのは、

小さいのが事実だからですね。

劣等感の反対になるんです、

事実は小なんです。

だからして大ということをいわずに

おれんのです。

 

だからして、そういう意味で、

劣等感というものは、

小さいだけでは劣等感 … 。

そのコンプレックスというのは、

劣等感だけじゃないです。

両方ともあると思います。

二面だと思うんですね。

 

そういうものを離れた、非常に静かな、

無尽蔵の世界ということに

なるというとですね、

一如の世界観というものは

非常に静かなんじゃないかと思うんです。

 

どんな小さなことでもそこにね、

無尽の世界というものに、

の内容になっていくわけです。

こういうのはまあ華厳、

華厳といいまして、ただ、

有の世界とか無の世界というんじゃない、

華厳の世界というものがある。

ええ、華厳法界です。

こういうものがやっぱり『十地経』で

表そうとしている。

 

華厳というのは、

雑華、雑華荘厳、雑華をもって荘厳する

というんですね。

日本のような花の無いところでは、

お茶の花とかいって、一輪差し

というでしょう、花がないから。

貧乏人の国のあれは芸術です。

インドにはふんだんにある花、

花を踏んで歩くわけです、

散華というように。

 

だからして雑華荘厳というのが、

この法界にはね、

一物も余すところがないというんだ。

捨てる物がないと、そういうことですね。

それはどんな労働であろうが、

うどん屋であろうが、印刷屋であろうが、

何であろうが、皆雑華でしょ。

雑華荘厳の世界だ。

 

そういうもんでないというと、

あのなんでしょうか、

そういう世界を見出さんというとですね、

どうも、

競争のためにくたびれてしまう

ということにならないでしょうかね。

 

なかなかそれは容易でないけど、

あの、そういう智慧を開くということは

なかなか容易でないけども、

しかしそれしかないんです。

 

そういうような世界は雑華荘厳の、

華厳の菩薩行といったことはね、

だから、

目立って何か大きな事業を起こすとかね、

何百人を入学させるという形じゃないと

思うんですね。

 

目立たんところにありますよ、

すぐ実行できるというような世界です。

つまりいってみれば、

無資本で出来るというような、

そういうものが、

華厳の世界というもんじゃないかと

思いますね。」

 

なかなか、面白いところです。

いつかの講義でも、

「言葉に感動する」、というこいとを

仰っておられました。

その感動がなければ何もできない。

どんな言葉でも、ちょっとした言葉でも

感動があれば、ものは動くものです。

そしてまた、

「教養からは何も出てこない」、とも。

すぐ人間は教養に逃げてしまう。

旅行とか音楽とか芸術とかに

逃げてしまう。

 

華厳という言葉も、新たな発見でした。

 

 

 

 

 

 

無念無想と三昧は違う

無念無想というと、

何かさとりの境地のような、

「無」とかいって心が空っぽになった

「すべては無です」とか

なにかしらわかったような

分からないような、

誤魔化されてしまうそうな言葉です。

 

先の講義で、

三昧ということは、ものそれ自体となる。

ということが出てきました。

その続きなんですが、

 

「ものそれ自体となること。

何もそれは

別に無念無想というようなことを

考えているんじゃないのですよ。

無念無想という、

何もないというんじゃない。

ものそれ自体になることですね。

考える自分と、考えられるものとは

二つないことですね。

 

ただ無念無想になっているのが

三昧じゃない。

けど、その三昧という言葉は広いんで。

禅というのも、

やっぱりその定(ジョウ)の一つです。

三昧というのも、サマーパッティという

のも広い言葉でいえばみな定なんです。

何か神秘的な意味の定もないことはない。

 

あるいは、

無念無想という定もないことはない。

無意識のような定もある。

無心定という定もあるし、

有心定というのもあるしね。

定にいろいろな段階があるであって。

 

それからして、たとえてみたら、

同じ無であっても、

無漏(ムロ)の定もあるし、

有漏(ウロ)の定もあるしね、

有漏の定というのは外道(ゲドウ)です

けど、外道にも定がある。

今日では、ヨーガということがはやる

ようにですね。

ああいうように

ヨーガというようなのが

やっぱり外道にもあるわけですね、

外道の方がもとでしょう、仏教よりも、

仏教はそれを採用しただけです。

 

しかし、大体いうとですね、

無念無想じゃない、

三昧智力(サンマイチリキ)という字が置いて

あるようにですね。

やっぱり無念無想というような意味じゃ

ないだろうと思いますね。

 

簡単にいえば、ものそのものとなること。

学問するときには学問そのものとなる

という意味です。そこで、その、

ものそのものになるということが、

何か一つの行じゃないかと思いますね、

そのこと自身が。

それが行の世界だろうと思うんです。

 

ものそのものにならん場合、

二つになっている場合、

それは分別です。

純粋行というのはね、

純粋行というようなことが、

やっぱり三昧ということがなければ

成り立たんだろうと思います。

目的とか手段とかいうものを

考えている間は純粋行じゃない。

そうでない、

もう目的そのものという。

 

念仏、往生するために念仏するという

のではないですね。

往生するためというようなことに、

そのような手段としての念仏という

ものじゃない。

そうじゃないんで、

念仏ということの外に

何もありゃせんのです。

念仏して浄土に生まれるとか、

仏に触れるとかいうけど、

そうじゃない、

念仏が仏なんだ、

念仏が浄土なんです。

それが純粋行という。

何のための念仏じゃない。

 

今日でもそうです。

今日は明日のために今日生きているん

じゃない。

今日は今日のために生きているんだと。

そのときに、

今日というものが、一つのですね、

あるもんじゃない。

行でしょう。

存在しているもんじゃない。

 

行という一つの、

行ずるという、行ずるという一つの、

まあいってみれば

一つの歩みですね。プロセス。

道程が存在している。

道程が存在している、そういうような

存在を考えなければいけないね。

 

何か固定してあるもんだと、

そうじゃないんだと。

動くということが、

机があるという場合には、そうだけど、

人間があるという場合には、

動くということが人間存在なんだ。

 

存在をやめてはたらくんじゃないだ。

はたらくという一つの生き方、

在り方なんだ。

はたらくという在り方でもって在るのが、

人間の在り方です。

そうでなければ机の在り方と

区別がつかない。

 

こういうわけでね、

通逹(ツウダツ)ということが使ってあるのは

面白い。

これがつまりものに通逹する。

それが三昧なんです。

そこにはや、すでに根元的な智が

成り立っているんだ。

 

ものそのものになるということは、

それ自身が智ですわね。

三昧にして同時に智です。

それからして、それをですね、

今度はそれ自身行だけど、

それに立って今度ははたらくという、

つまりその、

ものそのものとなってはたらくというか、

ものそのものになってはたらくという

言葉もおかしいけど、

ものそのものとなれば、

ものがはたらいてくるんでしょう。

 

ものそのものとなれば、

今度は我々がはたらくんじゃないんだ。

我々は消えてしまうんだ。

そうすれば、

ものそのものがはたらいてくるんです。

それが本当のはたらきですね。」

 

こういう言葉は実践の言葉でしょう。

こういうことは

当てはまるかどうか分かりませんが

仏師の方が、よく、

これは自分が彫ったのではない、

この木の中にいらっしゃった仏さまに

お出ましいただいただけだ、と。

鉈彫りで有名な「円空」、

木を見ればそこに仏さまがいらっしゃる

それで、つい手が動き鉈でもって

仏さを見出だしたのでしょう。

見れば見るものに仏を見て、

聞けば聞いたことに仏を感じる

そういう生き方をされたのでしょう。

そこには自分という存在が消えて

しまっているのではないでしょうか。

 

このあと、

努力無功用行(ドリョクムクユウギョウ)という

話しも出てきます。

また、自然(ジネン)ということも

出てきますが、

何か

同じく通じるものがあるように思うのです。

 

 

 

 

 

言語道断 心行処滅

安田先生の講義もずっと関連していて

先月に続き今月も続きます。

よく、シェリングの話が出てきます。

同一哲学という。

「目に見える自然」と「私たちの心」

は根っこでは同じ一つのものである

というような考え方です。

 

この講義を聞いたころ話題になったのが

一にして二という。

たとえば、一枚という紙も裏と表がある

一枚でありながら裏と表という二である。

なかなか分かったようで分からない、

一にして二という。

数字で2というと、1に対してのことで

ここでいう一とは違うのです。

 

そこのところを講義では

 

「同一を固定して考えてね、

同一といのは仏教の言葉でいえば平等です。

熟語でいえば平等という。

それに対して違うのは差別シャベツという。

だからして、

その平等であるということを固定して

考えれば、差別と違うと、こういう具合に。

だからして差別のないような同一は

死んだもんだと。

こういう具合にヘーゲルの駁論バクロンは

くるんですけど、

それは同一が悪いんじゃないんだと

思うですよ。

差別を持つことによってですね、

同一が一層同一になる。

同一をやめたら話にならんと

思うんですね。

差別ということによって一層、

同一がなくなるんじゃない、

一層同一になると、純粋な。」

 

というような話から、

仏教でいう「一如」ということを

話されておられます。

 

「一とか二とかいわんのが仏教、

一如というんじゃないだろうかと

思いますね。

一とか二とかいえばそれは差別に

なってしまうですね。

一如なんです。

無限に二になるままが一如だと。

 

不二の法門、というこいとをいうんです。

不二というのが仏教の一なんです。

世間の一じゃない。

 

本当の不二というものを、

離言リゴンといっているんだろうと

思うんです。離言ですね。

 

言語道断ということは世間の言葉に

なっているけれども、

言語道断の奴だといけどですね、

言語道断というのが、その一如なんです。

 

それはどういう意味かというと、

一如という言葉が一如でないんだと

いうんです。

本当の一如は一如という言葉もない。

それは、考えられた一如と、

一如そのものとは違う。

 

考えられた一如という考えと、

一如それ自身とは区別されなけばならん

大いなる区別がある。

如ということを考えるんじゃない。

考えられんということを如というんです。

如と考えるんじゃあない。

考えられんものを如といっているんです。

 

こういうのは、如というのは、

西洋哲学で、これは何といいますか。

不可知といわれてますが、

不可知という意味じゃないですね。

不可知論ではないです。

不可知というようなことをいうのは

やっぱり言説された一如なんだ。

考えられた一なんだ。

 

そういうものは不可知でないんであって

不思議なんだ。

不思議ということをいうんです。

不可知ということをいっているじゃない。

一如というのは、

分からんことをいうのじゃないんであって、

言うに及ばんということをいうんです。

言うに及ばん程はっきりしていることが

一如という。」

 

と講義は続きます。

言語道断ということもお経の中では

「言語道断 心行処滅」

という熟語で出てきます。

また、言亡慮説(ごんもうりょぜつ)

という言葉でも出てきます。

絶対のさとりを表す言葉です。

言説によっていいあらわすことも

思慮によって思いはかることもできない

という意味です。

 

心行処滅ということも同じことで

心行というのは、心のはたらき

心でおもいはかることも出来ない、

という意味です。

 

昔の言葉では、

こういう説くに説かれない、

また言うこともできないことを

歌にして表現しました。

 

「真如とは、若き女の乱れ髪、

いうにいわれず、とくにとかれず」

 

というように、

何ともうまい表現があるものです。

 

ということもあって、

AIに聞いてみたのです。

「AIは仏になれますか」と、

すると、

さすがですね、

「言語化できないさとりの境地は

言葉を超えたものとされ、

またAIは修行もできないので、

今までの言葉の蓄積によってしか

答えることが出来ません。」

というように返ってきました。

ちゃんと分限をわきまえているようです 。

 

そこに、修行という修練といいますか

繰り返しの稽古によってしか到達しえない

境地なのでしょう。

 

しかし、最近では京都大学で、

「親鸞ボット」とか「世親ボット」

というようなロボットが研究されている

ということです。

今までの膨大な蓄積によって

そこから答えを導き出すということは

出来ても、自ら考え、自ら思い立ち、

行動を起こすということは

人間にしか出来ないようです。

 

「思い立つ心の起こるとき」

ということがあります。

なにごとも、思い立つ心を起こす、

ということが何よりも大切なようです。

 

講義も、

西洋でいう「同一哲学」という、

一、とか、二という問題、

シェリングの話はよく出てきますが

そういう問題がずっと続くようです。

 

哲学というフィロソフィーということも

知を愛する、という意味で

これをして何の役に立つとか、

何のためにとか、

そういうことではなく、純粋に知を愛する

ということが大事ではないでしょうか。