2月15日はお釈迦さまの涅槃会
2月19日は安田先生の無窓忌
今年は相応学舎での無窓忌法要は
2月14日で、
予定では出席するつもりでした
が、その数日前より
インフルエンザに罹り発熱と咳
ひたすら、横になっていました
年とともにでしょうか
なかなか回復が遅く
病む度に老けていくような
実感でした
(というよりそこそこ老人に
なっているのですが)
安田先生の無窓忌
いつも気になるので、今年は
その名前の由来を聞いてみたい
と思っていたのですが
今回は無理でした。
十地経の講義を読みながら
そのはしはしに出てくる
中から自分なりに考えていました
一つには、
モナドには窓が無いという
こともあります。
それから、東寺の灌頂院の話が
よく出てきます。
東寺の正門である南大門を入ると
左側・西に位置しています。
それに対するのが五重塔です。
普通には東西にあるのですが
東寺の場合はひっそりと灌頂院が
佇んでいます。
東寺が密教の寺院であるという
証は講堂の二十一尊の仏像群と
この灌頂院でしょう。
灌頂院は普段はそれこそ伽藍堂で
何もありません
ただ、法を伝えるという伝法灌頂
のときには曼荼羅とかが祀られ
密教に寺院であることを表します
それから、
今は御衣を祈願し国家の安泰を
祈るという御七日御修法ゴシチニチミシホ
のときのみです。
このお堂は窓がありません
扉のみで、扉を閉めると
堂内は真っ暗になります。
法要の時はお燈明が灯され
その光で曼荼羅の諸尊が浮かび
あがります。
その中で修法が勤められます。
安田先生が注目されたのは
『十地経』に出てくる止観の行
止と観という二つの行
止観双行という言葉で出てきます
止と観という二つの相反する行が
一つになると、
そこに三昧という集中された心が
成立ってくる。
そういう三昧の心は定心ジョウシンで
反対の散心サンシンとは違います。
あっち見てこっち見てという
散心では思索も出来ないし
集中力も生まれません。
ですからこの三昧という定心が
生まれなければ
何事も成り立たない。
その定心を生み出す基が
窓のないお堂ではないかという
ことです。
よく見ると昔のお堂はほとんどが
窓はありません。
講堂の二十一尊を前にして
堂内に座し仏を念じ三昧を行じた
ということではないでしょうか。
まだ、東寺が拝観に踏み切る前は
堂内は閉ざしたままで、
時の管長さんは
「密教は見せるものではない」
と拒んでおられました。
やはり、窓のないお堂でなければ
三昧の世界には入れない
ということでしょう。
最近は大学もいい景色の郊外に
学舎を移されるようですが、
先生曰く
景色に見とれて勉強できんだろう
と仰っておられました。
弘法大師の最初の大学
綜芸種智院大学も市井の中にあり
しかも限定された空間の中で
勉強に励んだのでしょう。
「無窓」という言葉の中には
見たら見たものに、
聞けば聞いたものに、
振り回される人間の心を
遮断して、一つの集中した心を
生み出す基本として無窓でなけれ
ばならないという、
人間の勉学に励む、また
修行に専念するという態度には
まずは無窓という環境に
身を置かなければならないという
ことなのでしょう。
無窓忌という課題を残された
ように思います。