本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

『やめたらあかん』

以前、努力有功用行・無功用行

ということが出てきました。

有功用(うくゆう)それから、

無功用(むくゆう)と読みます。

面白い読み方だったので、

記憶に残ってる言葉です。

七地までは努力の限りをつくす

ので、有功用行です。

それが自然ジネンに努力を必要と

しない、努力せずにできる

というのが第八地です。

しかし、

七地も自然ジネンなんです。

その努力が成熟してきた、

熟練された努力というものが

八地といのです。

もう努力というかたちが

ないような努力、それで

自然ジネンに行ずる。

 

ということがあって、

その例として、森有正アリマサの

ことが出てきます。

この方はフランス文学で哲学者。

森有礼アリノリの孫にあたる方、

最後はパリの六区で亡くなられ

ます。

 

「仏教では薫習という、

なんべんも反復するということが

ありますし、薫習するということ

がありますが、

この間、僕は森有正の本読んで

いたら、自分の体験で語学の、

フランス語の話でしたけど、

『やめたらあかん』といって、

どんなことでもやめたらあかん。

無理でも続けたことに皆意味が

あると。

『やめたらあかん』

というんだ。

どんな意味でもね。

無理なことでも

続けさえしとったら、

何かものになっていくと。

 

こういうようなことは

何というか、そういうのが

経験的知識というものでしょう。

頭でそんな考えなんて

出てこないでしょう。

やめたらあかんと。

何でもそれを継続している間に

自然になるんだろうと

思うんです。

 

経験が真理だといえば

プラグマティズム

英米の論理になってしまう。

そうじゃなしに経験するというと

経験しうるという能力を経験

できるというんだ。

経験を、経験というものにおいて

真理が見つかると。

 

何かやっとるというと、

それ以外に道はないんだという

ような真理が見つかってくる。

やっておる間はあれもあり

これもあると考えておったけど、

だんだんやっとると、

それしかないんだということが

はっきりしてくる。

こういうような意味の経験という

ものがあると思うんです。」

 

この講義のところは

多くの方に感銘を与えたようで

ひたすら実践された方々も

多くおられました。

やはりやりだしたら

どんなことでも続ける

続ければほんものになっていく

ということがあるようです。

 

薫習(くんじゅう)

ということもとてもいい言葉で

漢和辞典を見ても、

薫クン、という字には

かおる、かおり、におう、

という意味と同時に、

 

香気に近づいて、

よいかおりがうつる。

とか

りっぱな人に親しんで、

感化される。

 

という意味があります。

また、

「習」という字は

羽という字がついています。

鳥がくりかえし羽を動かして

飛ぶ練習をするという意味で、

その意味から、

その事を幾度もならって

身につけること。

とあります。

 

仏教辞典では難しい意味が

ありますが、

いいことでも、悪いことでも

そのことを繰り返しやっていくと

それが次第に身について

その人自身を作り上げていく

ということです。

一つのウソもそれを隠すために

次のウソをつかなければ

いけなくなってきて

次々嘘が重なり、ついには

うそ八百といわれるように

その人自身がうそで出来上がって

しまうということがあります。

 

『やめたらあかん』

ということも、何か重要な

意味があるようです。