理性ということも
分かったようで分からない
問題です
広辞苑をみて見ると
哲学用語で、
英語では(reason)
ドイツ語では(vernunft)
ラテン語の(ration)が語源で
「教えること」ということ
ということです
普通には
「理性を保つ」「理性を失う」
というように使います
反対語はどうでしょう
感性、感情、本能
ということになるのでしょう
カントも
「純粋理性批判」とか
「実践理性批判」
ということを言っています
批判とはよく考えることで
もう一度深く吟味する
ということのようです
ここでいう理性は
「自己の内から自己を律する
法則を生み出すことができる
ということです」
そこで講義では理性と宿業
ということが対比されるように
出てきます。
「目覚めるのは夢から
覚めんならん。
理性の夢を見とって
夢の中で覚めるということは
出来へんわ。
覚めた覚めたと
思っておるのは夢の最中や。
夢だったな
ということが
はや覚めた証拠や。
夢でないと思っておるから
なお夢なんです。
だから理性が夢だったと、
知らされて業に目覚める。
業は夢じゃないわ。
そこで初めてですね、
覚めた世界の精神に
触れるんです。
それが願というもんです。
だからそういうように、
如来の願というようなものに
目覚めて初めて生死に入れる。
人間の考えで
娑婆に生きれるもんじゃない
んです。
人間を超えた深い根底という
ものに立って
娑婆に生きれるんです。
そうすると、
宿業というものが
情けないもんじゃあない。
喜んで引き受ける
荷物になるんです。
どんな重い荷物も喜んだら
軽くなるんじゃないか。
嫌うから重いんでしょう。
仕方なしにといって
やっておるから重いわね。
そして荷物と一つになるんだ
荷物と荷物を背負う肩があると
重いんです。
その肩というのは理性の肩や。
理性の肩と荷物とやると、
荷物の方が大きわね、
肩砕けちゃうんです。
砕かれたのがそれが
宿業に目覚めたんや。
現実におっぽりだされておる。
なかなか人間というものは
まず
目覚めるもんじゃないです、
おっぽりだされんと。
そうすると、
宿業に目覚めるとただ、
宿業に目覚めたといって、
情けないという意味じゃない
宿業に目覚めると同時に
宿業を背負う力もそこに
目覚めるんです。
現実に目覚めるとともに
また現実を背負うて立つ
精神に目覚めるんです。
そうしたら
現実は軽いでしょう。
理性で背負おうとするから
人生が重いんだ。
理性を捨ててしまえば、
そこに人生を超えて
人生を包むような
大きな魂というものに
触れてくる。
そうすると
人生というものもね、
共に悩むことができるんです
人生の問題を人類と共に
悩むことができる。
それは明るいじゃないか。
それでね、
宗教、魂に目覚めても、
人生問題、娑婆が消える
ということはないんです。
問題が消えるんじゃ
ないんです。
問題はあっても明るいんです。
明るく、
明るく悩むことが
できるんです。
それはちょっとも逃げ隠れも
せんじゃないか。
明るく悩むんだ。
普通は
明るく悩んでおるんじゃない
困っておるだけだ。
悩んでおりゃせんのや。
困っておる。
困るのは暗いわね。
悩むのは明るいんです。」
最初の題の答えが
一番最後になりましたが
「明るく悩め」
この言葉も聞いた当時
とてもショックでした
悩んだら暗くなるだろう
明るく悩めとは
どういうこと?
という具合にわからなかった
問題でもああります
悩むのではなく
何かしら自分にとって
都合のいい道がないかしらと
困っているということを
悩むということと
勘違いしていたのです。