本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

仏教に触れて初めて人間が分かる

一歩一歩ということが出てきました。

歩みは飛躍するのでもなく、

一歩一歩積み重ねていく、

ちょっと難しいのですが、

講義ではそこのところを詳しく

述べてあります。

が、読めば更に分からなくなるかも

しれませんが、

読んでみましょう。

 

「信満成仏と、信の一念に

もう仏になっとると、

こうも言えるけどもですね、

しかし単なる飛躍ではないんです。

それから一つ一つ重ねていくんでもないし、

積み重ねて。

そうかといって積み重ねをやめて

いっぺんに飛び上がってしまうと。

飛躍でもないし。

それから飛び越えて飛躍するんじゃない。

そうかといって、一歩一歩

積み重ねていくというんじゃないと。

それをどっちかにしてしまうと、

それは割り切ったような、

説明になってしまうんじゃないかと。

 

そうじゃなしに、

全体が一歩一歩なんです。

全体が一歩一歩として歩んでいくんです。

全体が歩んでいる。

 

たとえてみたら、

こういうようなこの、仏教の教説に触れて

初めて人間というものが

分かるんじゃないかと思うんです。

人間、何か参考になるというんじゃなしに、

人間というものは、

そういうものは道でしょう。

道というものを表しているんでしょう。

 

この地というのは、地地と、

地が地に動いていくことですね。

地から地へと動いていくんで、

それを道という …… 。

だから、そういうものは何か仏教の

古典の説というものじゃなしに、

そういうものに照らして、

初めて人間というものが、

人間の本質というものが自覚されるんじゃ

ないかと思うんです。

 

道というものの、ところに

人間があるんじゃないかと思うんです。

道というものを離れた場合には

人間はないんじゃないかと。

 

そりゃ職人がおるとか、労働者がおるとか、

いや社長がおるとか、

そういうものは出てくるけども、

だけど人間という者はそこに道を離れては

成り立たんじゃないかと。

職業的人間というものは出てくるけど、

職業というものが出てくるんであって

人間というものがなくなったんです。

そういうものがまあ、

今の世界というものの …… 。

そこに職人はおるし、社長もおるし、

労働者もおるけども、人間が一向におらん。

だから、社長と労働者の話し合いでも

人間の話し合いにならんです。

 

だからして、たとえてみたら、

Übermennsch(ユーバーメンシュ)と。

ニーチェは、人間というものは

どういうものかというと、

人間というものは超えていくもんだと。

超えていくんだと。

人間は、人間を超えていくものが

人間の本質なんだと。

超えていくもんだと。

 

人間は、人間を超えていく、

それが人間の本質なんだというような、

Üermensch ということが

にーちぇにありますが、これがね

ちょうど、この道になるんですよ。

そういうものが道というもんじゃないか。

 

だから人間は、

道というのは何かというと、

この道程という字があるでしょう。

つまり道程ですね。

これが大事な点です。

道程としてあるんじゃないか。

そういう時に道程という、

そこに

あらゆるものが総合されとるんです。

 

たとえてみたら、

欠点ということとか、失敗とかね、

反省とかね、色々なもの

その全部が道程の中の一部分なんだ。

だから道程を離れて欠点を見るというと

ですね、人間は死んでしまうんですよ。

 

こいつはあかんやつだと、

それだけの話です。

人間を、人を評価するには、

あいつはダメな奴だ、そういうのじゃない。

ダメなことも一つの契機(転機・経験)

になるですから。

 

あの幼稚園でもですね、

幼稚園の時だけでその子供を評価しちゃ

えらいことになると思うんです。

それから一年生でも、

一年生の時に学んだことはね、

一年では分からんです。

二年目で初めて分かるんです。

二年というもので学んだことの意味が

三年で初めて分かるんです。

だからして、それは続けるということです。

 

一年でやめてしまったら

一年でやったこともなくなってしまう。

一年でやめたら、一年で教わったことも

消えてしまうんです。

それで元も子もない、ゼロになってしまう。

人間というのは何でもそれをね、

続けんというと、

いつまでもABCを描いているということに

なる。

同じことをただ繰り返している

ということになるでしょう。

歩まなければですね。

 

そういうことも一つの あの … 。

道というものを離れても

人間だということはありはしないのです。

道というものに立ったときに初めて

人間になるんです。

それはですね、そこにあらゆるものを

総合していくから自信があるんです。

 

しかしながらですね、

一挙にじゃないから、非常に謙譲なんです。

一歩一歩なんです。

一歩一歩ということは、非常に謙譲だと。

しかしながら全体なんです。

全体が一歩一歩なんです。

全体の一歩一歩なんです。

だからまあ、『十地経』というのは

そういう本もあったというんじゃなしに、

十地というような、

つまり道程というものとして初めて

人間というものが自覚されるじゃ

ないでしょうか。」

 

Übermensch ということは

ニーチェの言葉として講義にもよく出てきます

直訳すれば、超人(ちょうじん)といわれます。

今の境遇を一歩一歩歩んでいく超えていく

そういう人という意味で「超人」といわれます。

ニーチェにしては最高の理想の人という、

そういう在り方が本当の人間の在り方では

ないかといいます。

 

このあと、

「あなた方は、

この『十地経』読み上げてみたって

何も残らんでしょう。

そうでしょう。

だから読み上げてみても何も残らん。

読まなきゃなお何も残らん。

だから読むということが

一つの歩みなんです。

それを縁として人間というのは、

完成していくと。」

 

というように話は続いていきます。

何べん繰り返しても本当の話は

味があるものです。